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パラオペリリュー島の戦いで日本兵と島民の感動に海外の反応

ペリリュー島の戦いで友情をきずいた日本兵と島民の涙のドラマ

目次


パラオのペリリュー島の戦いで日本兵と島民の友情

1919年、第一次世界大戦の後処理をする「パリ講和会議」によって、パラオは、日本の委任統治領になったことから、日本は、パラオの発展のため農業を浸透させ自給自足を行えるようにしたほか、工業や産業、インフラ設備などの普及に全力を尽くし取り組みました。

日本兵は、今までの占領国家と違い、ペリリュー島島民と共に働き汗をかき、パラオの発展のために様々なことを行ったのです。また一緒に食事をした時などは、酒を飲み歌い楽しい日々を過ごすこともあったと言います。そしていつしか日本兵とペリリュー島島民との間には、強い信頼関係が築かれていったのです。そんな中、次第に戦火が拡大しパラオのペリリュー島も戦場になることになりました。

日本兵は島民を守るために苦渋の決断

日本から3000キロ離れたパラオのペリリュー島の戦いは、1944年9月15日から11月27日にかけてペリリュー島で行われた、日本軍対アメリカ軍の戦闘で、アメリカ軍は、日本軍の6倍の戦力だったと言われています。そして火力はアメリカ軍が日本軍の数百倍で圧倒していたのです。その兵器や兵力の差に、この戦いは、想像もつかない激戦になると誰もが理解することが出来ていました。

戦火が拡大する中で、ペリリュー島の島民が「私たちは、あなたたちと共に命をかけて戦いたい」と、連隊長中川洲男大佐に申し出たのです。それを聞いた中川大佐は、島全体に響き渡るほどの大きな声で、「我々大日本帝国軍の軍人が、お前たちみたいな凡人と共に戦うことなど出来るかと激高した。それを聞いたペリリュー島の人達は、心のなかで、「この日本兵たちも以前まで、我々を統治していたスペイン人やドイツ人達と同じだった」とつぶやいたのです。

今まで、衣食住を共にし夜通し歌い笑ったこともある。良き友人たちだと思っていた日本兵が発した言葉に愕然としました。そしてペリリュー島の全島民は、やるせない気持ちを胸に秘めたまま島を出るための船に乗り込んだのです。自分たちの生まれた故郷を離れる切なさと全幅の信頼を置いていた日本兵の放った衝撃的な言葉に憤りを感じながら島を後にしました。そして彼らは日本兵の本当の気持ちを知ることになるのです。

ペリリュー島の戦いで日本兵と島民の間の友情の動画まとめ

戦争当時の日本兵に関する感動秘話は、とても多く存在しますが、このペリリュー島の戦いでの話もとても感動する内容でした。そんな日本兵に守られたパラオは、今でも代表的な親日国家ですね。

パラオのペリリュー島戦いで日本兵と島民の絆

ペリリュー島の戦いパラオの住民から愛された日本人

パラオのペリリュー島の戦いで日本兵と島民の友情まとめ

パラオのペリリュー島の戦いで、日本兵がとった行動の真相は、いかがでしたでしょうか?当時の状況の中で、とても苦渋の決断だったと思いますが、その思いが今日まで続いていることに驚きました。そしてパラオの国旗を見てもわかるように大の親日国家として、良い関係を築けている事実に嬉しく思いますね。

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